2012年9月11日火曜日

初めての学校見学

2009年9月28日

家の大家さんが校長をしている日本語の小学校を見学させてもらった。主に教師の指導に対しての意見を求められた。

とはいっても別に日本の文部科学省の指定を受けているわけではなし、教員免許があれば経験を問われない先生方もおり、下手におこらせてやめられても困るので、そこはやんわりと意見を述べさせてもらった。
子どもたちも普段はアメリカの学校へ通学し、土曜日だけ通ってくる。アメリカの学校の宿題も大変なのに、土曜日しかない日本語のクラスの勉強もする、なかなかできないことだと思う。それだけでも子どもたちにも先生方にも感謝である。

だが、一方で、いかに短い時間で多くのことを学ばせるか、その工夫が大変である。実際に私はこういう学校で教鞭をとったわけではないので偉そうなことはいえないが、しかし学習には基礎・基本がある。例えば漢字の部首や書き順もマスターすれば理解が早い。日本の英語が試験に通るためのカリキュラムだとすれば、アメリカの日本語もそうだ。いかに早く効率的に日本語を話し、読めるようになるか、またはなせるようになるかが優先される。それはある程度仕方のないことだが、漢字の部首の意味や書き順を理解していれば後々の理解が早いのだ。例えは悪いが英語でPhonics を勉強させれば、大きくなって発音とスペルが関連づけて理解されるようなものだと思う。

先生方に欠けているのは教え方ではなくて学級経営だと思った。教室に一旦入ったらもうそこは別世界、日本語を使って楽しい学習をする、そんな設定や話し方、話題作りが大事だ。日本の指導要領を教えなければならない、でも時間がない?先生方はまじめすぎる。子どもの能力を理解していない。教えなくても気づくことはたくさんあるのだ。しかも内容は英語で学習することも多いはずだ。勉強は教えてもらうものではなく、気づくよう誘導されることが大事だと思う。100教えられて90忘れるより、自分で気づいたり推理して身につけたことは例え15でも忘れることはない。しかも他のことを類推したり簡単に調べる能力も身に付くのだ。そこが日本の教育の素晴らしいところで、どんなに東南アジアの子どもたちが英才教育を受けて一部の人間が優秀でも、日本の子どもたちの方が教育や文化を受け入れる全体のレベルが高いので、将来的に希望が持てるのだ。

具体的ではないが、ここでは個人情報や他への影響を考え一般的なことを二つだけ述べる。教育は未来に生きる子どもたちを育てるので、「未来を作る仕事」だと認識してもらいたい。だからこそ教育の責任は重いし誇りある仕事なのである。もう一つは評価である。評価は人のランク付けやテストの出来不出来を判断するものではない。評価とは人を育てるために行うものである。子どもの目標に対し、教師が客観的に評価し、次の学習にどう生かすか、目標自体の善し悪しから次のステップへのアドバイスまで評価を通して行うことである。上司が部下に対して行う評価も同じだと思う。部下を育てることが上司の仕事である。だから勤務評定を行う。優秀な子どもをたくさん育てられる指導者がいい先生なのであり、優秀な部下をたくさん育てられる上司が、いいボスなのである。



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